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「オリジン法5」



前回の話では、言葉とは「人間」が造り、それが進化してきたものであるという事でした。そして今回は、その結論に対して生ずるであろう疑問を解消していきたいと思います。

まず「言葉は神様が造るものではないのか?」という疑問がありました。これについて言えば、正直なところ、神様が造ったことにしたところで何も変わらないのです。
人間達は時に言葉を間違えます。そしてその間違いがそのままになることもあります。日本語の例として、「新しい」は本当は「あらたしい」なのに、今日では「あたらしい」でなければほとんど通じません。これも一種の「言葉の誕生」と言えます。
言葉は「進化」するものです。たとえ太初に神様が言葉を完備させていたとしても、人間が起こす「言葉の進化」を神様でさえ止められなかった事は、死語や俗語などの存在を見れば明らかでしょう。
言葉の進化によって、新しい言葉が湧き水のように溢れかえり、古くて使われなくなった言葉は死語として人類の記憶から消えていくという構図によって、言葉の明確な起源というものは埋もれて見えなくなってしまいました。今日私たちが使っている言葉の中に「神様が造ったそのままの言葉」があるとしましょう。しかし、そうである言葉とそうでない言葉、果たして我々人間に見分けがつくでしょうか?

ここで中途半端ですが、次の「言葉は本当に進化するのか?」という疑問についても説明いたします。これはあまり難しい事ではありません。「進化」というものをあまり難しく考えなければいいのです。
生物の進化の樹形図などがありましたら、それをものすごく近くで見てください。遠くから見れば「進化の樹形図」でも、近くで見れば、そらが一つ一つの枝分かれからなっていることが分かります。これを言葉の進化に比定すると、枝分かれは先程述べた「言葉の間違いをそのまま使っていること」にあたります。
言葉の間違いというのは普通は訂正されますが、上の例のように間違った言葉がそのまま普及するということは十分にあり得ます。一方で、正しい言葉も一緒に残ることがあります。そして、その一回の間違いが訂正されないまま、次の間違い、次の間違いと繰り返していったところで、視点を引いてみると、いつのまにか樹形図の形になっているのです。フランス語やドイツ語などのように似通った言語も、発音や意味の勘違いを繰り返したことによって、最終的に別々の言語として分かれたと想像できます。言葉とは、無意識の「勘違い」もしくは、前回話した「言葉の誕生」の積み重ねによって「進化」していくのです。

人間の歴史というものは、人間一人の一生に比べれば遥かに長いものです。数万年という時代の中で、人間が「勘違い」を起こさなかったことがあるでしょうか?おそらくは、想像もつかないほどの回数の勘違いと、間違いが繰り返された結果、今ここに私たちの使っている言語というものがあるのです。言葉というものは決して完成したものでも、整備されたものでもありません。そのため、言葉が通じない、伝えようとしたことが伝わらない、意味が通らないなどのことは当然起こりうる事態です。時に言葉の不完全さが、あなたや相手を不快にさせたり、思わぬ事態を引き起こすことがあるでしょう。ある意味では想像に難くない、起こって当然のことなのです。願わくば、皆さんにはこのことを心に留めつつ、人と人とがふれあうこの世の中を生きていただきたいと思っています。


__いかがだったでしょうか。これが私の「オリジン法」によって考察した、「言葉」についての説です。参考文献なども一切使わず、ほぼ勘で書いているため、この内容を信じるか否かは読者の皆様一人一人にお任せいたします。私は偉い学者でもなんでもないので、決して鵜呑みにだけはしないようお願いいたします。
「オリジン法」で調べられる事は「言葉」のみならず、その他の起源などにも精通するので、次回からはまた別の考察を書いていきたいと思います。


【twitter経由の方へ】もし「○○はなんで○○なんだろう?」という疑問が日常生活の中で発生した方、もしよろしければ@Greenmoonslugまで。疑問解消のお役に立てるかもしれません。また、今後記事を書く際の参考にさせていただく事もあります。ご意見、ご感想、ご指摘などもお待ちしております。
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ここで皆さんに質問です。「言葉」「言語」とは、一体誰が造ったものなのでしょう?
神様を信じる人は、神様が人間に言葉をもたらしたと答えますか?神様を信じない人はどう答えますか?
私は普段の生活では神様を信じない立場にいます。私はこう答えましょう。
「言葉は、人間が造ったものである。」
しかし、私はさらにこう言いたいのです。

「言葉とは、人間が造るものである。」

現代の人々が使っている言葉のそれぞれには必ず「語源」があります。辞典やインターネットで調べれば、一部の言葉の語源を知ることはできますが、すべての言葉のすべての語源が載っているわけではありません。そこには人が調べて分かった分の情報しかありません。
もし、ある1つの単語の語源を、時代をさかのぼって途切れること無く追うことができるとすれば、やがて前回の「言葉の誕生」の瞬間に行き着くことでしょう。
逆に言えば、今私たちが日常非日常で使っている言葉とはすべて、前回のような「言葉の誕生」から脈々と姿を変え、進化していったその末端の形であると考えることができるのです。
また、一部の似た言葉、あるいは全く違うように聞こえる言葉でも、さかのぼると同じ語源を持っていることがあります。
生物の進化の系譜がそう現されるように、言葉の進化の系譜も美しい樹形図で表すことができるかもしれません。そして、その太い幹の一番最下部こそが、言葉の誕生の瞬間であると言えます。

しかし、ここでいくつかの疑問が生じることでしょう。
まず、先ほどから当たり前のように使っている「言葉の進化」という語ですが、そもそも言葉とは本当に「進化」するものなのか?そうだとすれば、どういう風に?
そして、そもそもこの話の一番最初、仮に人ではなく神様こそが言葉を造ったのだと考えれば、この話自体がおじゃんになってしまうのではないか?
その疑問を、次回の話で解消しようと思います。「言葉」の中に潜む、恐るべき「当たり前の構造」を語るのは、まだまだ先になりそうです。


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人間は言葉を扱う唯一の動物です。
イルカなどの生き物は、いくつかの感情や信号でコミュニケーションできますが、言葉と言えるほど多様なものではありません。
逆にオウムなどは言葉を発する事はできますが、その意味をすべて理解できているとは言えません。
言葉とはコミュニケーション手段の一つに過ぎません。しかし、犬や猫の鳴き声に比べれば、その便利さや明確さはずば抜けています。
ではここで、原始人の例を使い、言葉というのは基本的にどんな性質を持っているかを見てみましょう。




原始人Aはある日「ガオー」と鳴く恐ろしい動物を見た。原始人Aは逃げ帰り、仲間に「ガオー、ガオー」と伝えた。




また、あまり良い例ではないですが、原爆を「ピカドン」と呼ぶ事があるように、名前を知らないものに直感的に名前を付ける場合、その物の発する音などをまねてつけられる事が多いものです。
幼児が犬を指すとき「犬」と言うよりも「ワンワン」と言って指す方が、幼児自身にとっても分かりやすいからそう言うのでしょう。
上の原始人の例は、原始人Aが新しい言葉を作った瞬間です。「言葉」と呼ぶには少々違和感を感じるかもしれませんが、他にも海に行き山に行き、新しいものを見つけるたびにこの例と同じ事を繰り返し、やがて言語というものが成り立つのです。
このように、言葉とは人間が造るもの、少なくとも造りうるものです。人間が誕生したときすでにすべての言葉が整備されていたわけではありません。
言葉や言語とは、人がその場で思いついた単語を1つずつ積み重ねて築かれるものです。そして言葉が増えた事によって、物事を考察する能力が付きます。
例えば原始人が「ガオー」と「自分たち」の関係を考えるとき、言葉として仲間に伝える事で、仲間とともに考える事ができます。そして、原始人Aがガオーの強さを考え、原始人Bがガオーと戦う事を考え、原始人Cがガオーの肉の事を考えたとすれば、実際にガオーに会った時の対応は良い方向に変わるでしょう。
やはり、言葉は便利なのです。

今回は、言葉の大まかな成り立ちについて述べました。しかし、オリジン法による「言葉」や「言語」の研究はさらに進んでいます。当たり前なのに気付かない、言葉というものの秘密を、次回はさらに解き明かしていきたいと思います。


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なめくじが今、心理哲学で最も頻繁に使っている方式は「オリジン法」と言うものです。
生物学・進化論によれば、人間は生物の進化の末端にいるはずです。そして、現在人間が持つ言語や知識や能力、文化、社会、文明、娯楽、宗教もまた、類人猿から現代の人間に進化する過程で生まれていったものと考えることができます。
オリジン法はそれらのカテゴリーから、進化の過程を逆に辿り、人間が起こす行動をできるだけ簡潔な表現に変えることで、自分が抱いている疑問を解決する方法です。そのため、原始人やサルなどがよく例に出されます。

前回のサルの例が一番分かりやすいでしょう。「価値観」という難しい言葉が理解する気を削いでいるように思えますが、前回の例のように、価値観のズレとはサルでも起こるのです。具体的にどのようにズレるのかは前回の説明の通りです。

それではもし、前回の例のサルがサルではなく、言葉をある程度使える原始人だったら?




一本の木の下に原始人Aがやってきた。木に寄りかかって休んでいると、上から木の実が偶然目の前に落ちてきた。原始人Aはこれを喜んで食べ、またどこかへ行ってしまった。
すぐ後に、同じ木の下に原始人Bがやってきた。木に寄りかかって休んでいると、上から木の実が偶然頭の上に落ちてきた。原始人Bはびっくりして、木から逃げるように走り去ってしまった。

後に原始人Aと原始人Bは出会って友達になり、原始人Aは前に休んだ木の下に原始人Bを誘った。しかし原始人Bは嫌がってその木の下には行こうとしなかった。原始人Aがなぜ木の下に来ようとしないのかと問うと、原始人Bは「そこで休んだら頭の上に木の実が落ちてきて痛いだろう」と言った。




ここに言葉を追加したことによって、AとBはある程度情報を共有できるようになりました。もしかしたら、この後原始人AはBの言い訳に納得するかもしれません。しかし、原始人Aがもし人生の中で、自分の頭の上に木の実が落ちてくるということを体験したことがなければ、想像がつかないかもしれません。
しかし、原始人Bの「痛い思いをしたくない」という意志は、サルの例と違って相手の方に発信されました。言葉を相手に伝えることによって、自分の行動の理由、裏付けを相手に説明し、共感させることができるようになります。

一方で、現代のJ-POP音楽の歌詞などで「言葉にできない」や「言葉だけじゃ足りない」などといったフレーズを見かけますね。
また、ラジオの生放送や何かのライブのときに、歌詞や台詞やネタを忘れてしまうこともあります。
つまり、人間は言葉にしたいものをすべて言葉にできるわけではないのです。
上記の原始人同士のやり取りを、現代の人間の会話のやり取りに置換えたとして、その場その場で思いついていた言葉が急に詰まった、先の考えが言葉にできなくなった、などのことは起こり得ることです。この場合はサルの例の状態、つまり自分がなぜこういう意見を出したのかを、相手に伝えることができない状態です。

ど忘れは偶然に起こるものです。会話中の一言のズレで「この人と自分は価値観が違う」と思うことは珍しいことではありません。サルや原始人の例の中にも隠れている言葉「偶然」こそが、価値観の違いを決定してしまう主な要素だと私は思っています。

偶然によって開けてしまった価値観の差、もし埋めたいのであれば、偶然のいたずらによってできた穴を埋めるための努力を怠らないでください。

次回は、私がオリジン法によって発見した「言葉」の秘密を探っていきたいと思っています。



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心理哲学のお時間が(ついに)やってまいりました。



本日のお題は「なぜ価値観の違う人間がいるのか」です。
自分の言う事を理解してくれない人、逆に自分では理解できないようなことを言ってくる人、自分が好きな趣味や人物、映画、学問、音楽、ゲーム、漫画、アニメ、バンド、スポーツ、デザインの少なくともどれかを嫌いだと思ってる人が世の中のどこかにはいます。
しかし、同じ人間でありながら、なぜそのように意見や趣味の食い違う人間がいるのでしょうか?
「何で理解してくれないんだろう」という疑問に対して「価値観は人それぞれだから」という答えは正解ではありますが、そう答えたとしても「じゃあなぜ価値観は人それぞれなのか」という事まで考えている人は割と少ないように思います。
ここで1つ、価値観の食い違いが起こる瞬間の例を挙げてみたいと思います。



一本の木の下にサルAがやってきた。木に寄りかかって休んでいると、上から木の実が偶然目の前に落ちてきた。サルAはこれを喜んで食べ、またどこかへ行ってしまった。
すぐ後に、同じ木の下にサルBがやってきた。木に寄りかかって休んでいると、上から木の実が偶然頭の上に落ちてきた。サルBはびっくりして、木から逃げるように走り去ってしまった。

後にサルAとサルBは出会って友達になり、サルAは前に休んだ木の下にサルBを誘った。しかしサルBは嫌がってその木の下には行こうとしなかった。



どんなに複雑に見える価値観の食い違いも、基本はこういうことです。あるものに触れた時、一方はその恩恵を受けたが、一方は嫌な思いをした。これで、○○が好きな人、嫌いな人という構図は完成するわけです。
特に気付かれにくい点は、上記のサルの例のように「偶然」恩恵を受けた、受けられなかったということは十分にあり得るという事です。むしろ、価値観の食い違いが起こる大元の起因はほとんど偶然といっても間違いではありません。
価値観は、その人のそれまでの人生の中で体験してきた事を元に形作られていくものです。ものを好きになる、嫌いになるのには、必ずその人なりの理由があります。ただし、その理由をすべて言葉で説明できるものではありませんし、100%相手に伝えられるものでもありません。もし、自分と価値観の違う人間に出会ったら、少なくとも「この人はこういう判断をするだけの体験を今までしてきたんだ。そういう背景の中で生きてきたんだ」という事を自分から考えてあげるのがベストだと思われます。



・・・いかがでしたか?これがなめくじ流心理哲学です。
一見、当たり前のことを言っているように思えますが、これはほんの一例に過ぎません。今の文章の中には、なめくじが使っている心理哲学において重要な部分がいくつも入っているので、これを初回として挙げさせていただきました。
特に、途中で入ったサルの例、あれこそがなめくじの心理哲学「オリジン法」の考え方なのです。詳しい事は次回にします。

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やっと書けたーーーー!
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